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市内のちょっと珍しい文化財を紹介(6)

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神奈川県綾瀬市

中世のあやせ~宝篋印塔~

宝篋印塔(ほうきょういんとう)は、中世から近世にかけて全国各地で造立された石造物です。造立の目的は、彫られた願文の内容から、特定の人物を供養するための追善供養塔や、個人の墓石、徳を積むために生前に自ら造立する逆修塔(ぎゃくしゅとう)だったことが分かります。
上部から、相輪(そうりん)・笠(かさ)・塔身(とうしん)・基礎(きそ)・反花座(かえりばなざ)の5部材でできています。形は関東型、関西型の2つに大きく分かれていて、各部位に違いが見られます。特に反花座は、簡素にするか重厚にするかといった、東西の作り方の違いを一番感じることができます。西大寺(現・奈良県)の僧侶・忍性(にんしょう)により伝えられた安山岩などの硬質石材を加工する技術により、関東でも宝篋印塔や五輪塔がたくさん造られるようになりました。

■宝篋印塔の名前の由来
955年に呉越国(ごえつこく)(現・中国)の王がインドのアショーカ王の故事に倣い8万4000基の金銅製小塔(こんどうせいしょうとう)(八万四千塔)を造って、中に宝篋印陀羅尼教(ほうきょういんだらにきょう)を納め、諸国に配布したものが基になったといわれ、この小塔と同じ形の塔を宝篋印塔と呼ぶようになりました。日本にも飛鳥・奈良時代には伝来していて、木製や土製のものが残されています。石製の宝篋印塔は、鎌倉時代に入ってから造られるようになりました。

■綾瀬の宝篋印塔
市内で確認される宝篋印塔は全て関東型のものです。31カ所で161点が確認されていますが、五輪塔と同様に完全なものはなく、一部が残存しているのみです。市内最古の宝篋印塔は、報恩寺の相輪で、室町時代の最初期頃だと考えられています。年号が分かるのは、基礎部で、報恩寺で2点、個人墓地で1点確認されています。報恩寺の1点には、応永16年(1409年)とあり、室町時代中期の造立であることが分かります。一番多く残っている部分は笠部で、全部で49点あります。このことから、正確な数は分かりませんが、最低でも49基は中世期に造立されていたと考えられます。
石材は、五輪塔と同じく、西相模産の安山岩で、1点のみ凝灰岩製のものが確認されています。安山岩は、石材の産地として知られる真鶴半島一体から相模湾を渡って持ってこられたと考えられます。

■綾瀬の中世
文献には残っていないものの、綾瀬には多くの中世石造物があり、その石材は、遠くは埼玉県から、近くは相模湾を越えた真鶴方面からもたらされていました。相模湾や相模川流域を使った水上交通とともに、鎌倉からの陸路の存在がうかがえます。中世の綾瀬は、人の往来が多い、陸路と水路の交わる地域としてにぎわいを見せていたのかもしれません。

※個人墓地への立ち入り、寺院などへの問い合わせはご遠慮ください

問合せ:生涯学習課
【電話】70・5637

       

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