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市内のちょっと珍しい文化財を紹介(8)

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神奈川県綾瀬市

生活に欠かせない標識 ~道標~

「道」は、古くから人々の生活や文化を支えてきました。現代では、買い物や仕事、学校や遊びなどの理由で人々は移動し、移動手段は自転車や車、電車など多岐にわたります。目的地に向かうためには、それらを示す標識が重要な役割を担います。標識の中でも身近な存在として、行き先や道路の決まりを記す、道標があります。そこで、移動に欠かせない道標の歴史を見ていきます。

■道標とは?
方向・距離などを記した立て札や石碑などで、道路沿いに造られた標示物です。起源は、江戸時代までさかのぼるといわれています。文字が記される以前には、土を盛って造った一里塚などが道標の役割を担っていました。

■なぜ道標が造られたのか?
江戸時代、徳川幕府による街道の整備や社会秩序の安定、経済の活性化を受け、移動する人が増えました。それまでは、大名や商人、経済的に余裕がある人など、特定の身分の人や特定の目的を持つ人しか広域の移動をすることはできなかったのです。
江戸時代中ごろ以降は、庶民も巡礼や参詣を目的とした移動ができるようになり、今までと比べものにならないほど、大勢の人が行き来するようになりました。
往来する人が急速に増加し、目的地が多様化したことで、行き先や現在地など“道に関する情報”が必要とされるようになりました。これにより、各地で一斉に道標が建てられたのです。
明治時代に入ると、馬車や人力車、自転車など交通手段が増え、移動もさらに活発になりました。その半面、事故も増えたことから、明治32年、車種ごとの通行止め規制が行われました。以後、増加していく交通手段と変化していく移動の需要に合わせて法律が整備され、現在の道路標識が誕生しました。

■市内の道標(江戸時代)
綾瀬市域は古代から人の往来の多い場所で、江戸時代には、矢倉沢往還や大山街道、中原街道など多くの道が通っていました。道路沿いには、道や行き先が彫られている庚申塔(こうしんとう)や道祖神(どうそしん)があり、道標として利用されていたことが分かります。
石造物の多くは元々建てられていた位置から移動されていますが、記載されている道の名前や行き先から、昔の道の名残を感じることができます。例えば、深谷地区には庚申塔の道標が10基残存しており、その内6基に「厚木道」と書かれています。このことから、江戸時代に深谷を通る人々にとって、「厚木」が重要な場所・目印であったことが分かります。
同様に、市内に残る石造物の道標を二つ紹介します。

(1)不動明王
早川地区の五社神社にある不動明王を見ると、五社神社を目印として、多くの道が交差していたことが伺えます。

(2)出羽三山供養塔(でわさんざんくようとう)
上土棚地区にある同供養塔からは、藤沢方面と星谷寺(しょうこくじ)(座間市)方面をつなぐ道が通っていたことが分かります。これらのことから、広域信仰における道標の重要性を知ることができます。

■市内の道標(昭和時代)
昭和時代初期に、青年団により角柱の道標が整備されました。昭和初期前後に綾瀬市域で往来が多かった場所に建てられていると考えられ、同時代の綾瀬周辺の人々の生活圏を知ることができます。
インターネットもテレビもない時代、来村する人は、情報を運んでくる貴重な存在でもありました。情報確保のためにも、道標の整備は重要だったのかもしれません。道標が多いということは、多くの人が往来した場所だということを示していて、江戸時代の綾瀬の賑(にぎ)わいや綾瀬市域の人々の生活圏を見ることができます。
歩きながら、ぜひ昔の道標を見つけてみてください。

問合せ:生涯学習課
【電話】70・5637

       

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