■あやせの歴史―江戸時代の領主たち―
江戸時代の綾瀬市域は8つの村に分かれていました。各村は、それぞれ治めている領主が異なり、市域の大半は旗本領で、他に幕府直轄領などがありました。時期によっても領主や領地のあり方が異なり、複雑な管理体制だったことが伺えます。江戸時代中期にあたる宝暦10年ごろには、小園村・吉岡村が佐倉藩、本蓼川村が藩領、深谷村の一部が幕領、深谷村の他一部・寺尾村・早川村・蓼川村・上土棚村が旗本領となっていました。ほとんどの領主は、綾瀬以外に本拠地を持っており、領地の一部として本市域内の各村を管理・運営していたようです。
このような支配・管理体制の中、“綾瀬の地”を自分の領地の中心地(本領)とした旗本が2家ありました。1家は江戸時代のはじめから幕末まで上土棚村を治めた“遠山家”です。もう1家は、寛永10年(1633年)から宝暦8年(1758年)まで深谷村を治めた“大橋家”です。今回は、遠山家について紹介します。
■遠山家
遠山家は、美濃国遠山荘を代々所領とした一族で、徳川家康に従って関東へ来ました。初代の遠山安吉は家康の父・松平広忠の家臣であり、遠山家はいわゆる三河以来譜代の家臣でした。
安吉の次男で家康の家臣だった遠山安則が、天正18年(1590年)に相模国内2カ郡に所領を得た後、上土棚村を遠山家の本領としました。以降、本市域では珍しく、同村は幕末まで領主が変わらない地として遠山家により治められたのです。
■綾瀬に残る遠山家の“足跡”
上土棚地域では、今でも領主・遠山家の痕跡を見ることができます。
文化9年(1812年)に書かれた『寛政譜』には、安則が慶長15年4月5日に死去し、法名を「蓮光」としたことや、“高座郡上土棚村の蓮光寺”に埋葬されたことが記載されています。「蓮光寺」は、安則が徳川家に許可をとり、増上寺(東京都)の末寺として開山しました。本寺は、遠山家の菩提寺として、江戸時代初期から幕末に至るまでの領主・遠山氏累代の墓が今も守り、伝えられています(市指定文化財)。
「熊野社」には、遠山家領主の名が書かれた“熊野三社権現造立棟札”や、文政2年(1819年)に当時の領主であった遠山景之が寄進した“石灯篭”などがあり、遠山家からの信仰を受けていたことが分かります。
蓮光寺や熊野社では、これらの記録を関係者により現在まで大切に保存・継承しています。江戸時代の綾瀬の歴史を、現地を巡って感じてみてください。
問い合わせ:生涯学習課
【電話】70・5637